吉田隊長の後悔日誌

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<<   作成日時 : 2017/07/10 10:45   >>

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 帯に書かれてあるとおり「週刊誌が一番熱かった時代」の顛末とつわものとしか言いようのないライターたちの奮闘記。。

 著者は光文社で編集の仕事に携わった後、月刊誌「噂」の編集長を務めたフリーライターの「高橋呉カ」氏。。
 出版界にあって黎明期だった週刊誌の発行。。というドラマとその当時の気概溢れる出版人たち。。どうなんだろう。。その当時は知的レベルも高い多くの逸材が跋扈していたようにも感ぜられる。。

 本書には編集者の他、週刊紙上を賑わした小説家、ルポライター(「文芸春秋」編集長「田川博一」の造語。。ルポルタージュとライターをくっつけたもの。。)などが紹介される。。

 まず登場するのは朝日新聞から「週刊朝日」への移動を言い渡された「扇谷正造」。。副編集長となった扇谷は編集部初登場の日、新聞を読んでいた新人記者に「新聞記者が社へ出てきて新聞を読むとはナニゴトだ。家を出る前に全部に目を通してくるんだッ。」(P.23)と一喝する。。
 扇谷が週刊朝日に席を移した頃(昭和22年)は出版ブームのまっただ中ではあったが、さすがに週刊誌は出現しなかった。(P.32) とあるが、これは、そのブームが週刊誌にまでは至らなかった。。ということ。。(週刊朝日とサンデー毎日の創刊は大正11年。。)
 無類の読書家である扇谷は守備範囲も幅広く、本人も気づかない編集の資質を備えていた。。その彼が編集長になって企画したのが「連載対談」。。そのホストに無声映画の活弁士だった「徳川無声」を起用して大ヒット。。さらにもう一つの大黒柱「連載小説」。。これに「吉川英治」を起用してヒット。。週刊誌ブームの始まり。。

 ルポラーター「草柳大蔵」が「週刊新潮」に参画してから模索し続けた「データ・ジャーナリズム」という手法は、昭和24年に刊行されたJ・ハーシーの「ヒロシマ」に脱帽してから一貫して追い続けたテーマである。。「ハーシーの文章には、いっさい私見がない。終始、データに語らせて、けっして大声を上げることがない。しかもなお、感動を呼び起こしている。」(P.91)

 また、草柳は食えなくなったライターは、生活のために、どんなインチキ記事でも平気で書くという現実を学んだ。(P.89)
 だから、ライターは、いい仕事をしても、切られるときは切られる。そのとき蓄えがないと、つい、どんな仕事にも飛びついてしまう。(中略)最低三カ月は食えるだけの蓄えをしておかなければならない。(同P.89)これは草柳がライター・グループに伝授した心得である。
 どの世界にあっても胸に刻むべき言葉であろう。。

 あの時代にジャーナリズムの世界で活動した人物が次々と紹介される。。写真家の土門拳、「週間アサヒ芸能」の社主兼編集長の「徳間庚快」(後に遠藤実に頼まれ「ミノルフォンレコード」を買収。。やがて徳間音工となる。。)、先の「ルポライター」という新語を考案した「田川博一」などなど。。

 この「田川博一」に手紙を書いてライターの職を得たのが「梶山季之」。。小説家志望だが純文学指向の周囲からは酷評されていた。。という。。ストーリーテラーとしての資質が邪魔をしていたのだ。。しかし、ライターとなってからは本領発揮。。面白い小説も評判となる。
 しかし梶山は若い頃から結核持ち。。短い人生を豪放に駆け抜けた。。

 週刊誌ブームは衰えず、「週刊文春」「週刊プレイボーイ」「平凡パンチ」「週刊現代」「週刊少年マガジン」「漫画サンデー」「女性自身」「週刊ポスト」等々の、しのぎを削る奮闘物語が語られる。。

 現代に比べるとまだまだ未熟だった日本の社会。。しかし、あらゆるものが未来を目指して息づいていた時代。。






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